昨日、入学説明会が中学校の体育館であった。
娘はもうすぐ中学生になる。
説明会が終わると、同じ体育館内で学校指定のジャージや上靴やハーフパンツをその場で注文するのだが、混雑した中でサイズを合わせなければいけないので、お父さんがしどろもどろして困っていると、知り合いのお母さんや顔見知りでないお母さんまでが助けてくれた。
「おねえちゃんは ジャージの下はMで上はSの方がいいよ」
女の方は服を子供の前に合わせ ちょっと見をしただけで分かるのだろう、さすが女性はすごい。ここらへんがやはりお父さんの弱点なのでる。
「ハーフパンツはひざがかくれるくらいだから、えーっと、これ!これね、M、Mだわ、ね」
その後、いろいろと入学の際の疑問等が山積していたので、いい機会だと思って、お母さん方に矢のように質問した。
小学校で使っていたリコーダーは中学で使えるのかどうか?ジャージは洗濯するため2セット買った方がいいのかどうか、2セット買うとしたら何と何か?制服はどこでどうやって何に気をつけて買ったいいのか?などである。
お母さん方、どうもありがとうございました。大変助かりました。
お父さん家庭というのはこういった際の情報量が圧倒的に少ないので痛い。
その気になって調べようと思ったら調べられるのかもしれないが、一般の家庭のお母さんに慣れなれしく電話して聞くこともできないし、学校側は「なんでも聞いてください」というスタンスなのだと思うのだが、ちょっとしたことで苦情を学校に電話をして、先生を困らせている事が話題になっている昨今、なかなか細かいことでいちいち質問することができないというのが実情なのである。
疑問の質問の矛先はもっぱら、家に遊びにきてくれる娘の友人が唯一の情報元となる。友人にいろいろ聞くのだが、うまいこと分かることもあるし、金銭的な事柄はあたりまえだが とんと分からなかったりし、そのたのみの友人が分からなかったらアウトなわけで、お父さんの疑問はそのまま封印せざるをえなくなり、鬱屈したままになる。
保育園から小学校に上がるときはもっとひどかった。
小学校に入る直前に分かったのだが、娘が通う小学校にはなんと学童保育がなかった。また学童保育のある別な小学校に学区外入学できる仕組みになっていることを知ったのも入学の直前だった。が、時すでに遅しだった。保育園時代にそこらへんの詳しい情報を手に出来ていたら、小学校の生活は親子ともども全然違ったものになっていただろう。
その日の夕方、コープ札幌 〇〇店 2階の衣料品コーナーに中学校の制服を買いに行った。
最初お父さんが制服のサイズを見立てていたのだが、少し不安になり、店員さんに、
「あのぉ 制服を買いたいんですけど、なんにも分からないもんで、んで、何を買ったらいいかを教えていただけないでしょうか?できれば意見していただければありがたいんですけど」
店員さんは快く、「わかりました」と返事してくれた。
途中もう一人の店員さんも加わってくれて、喧々諤々と親身になって見立ててくれた。
「上着もジャンパースカートも160サイズでいいと思います。今ちょっとダボっと大きい感じがしますけど、今の時期の子供さんはすぐ手足が長くなって、すぐ丁度よくなると思いますので、このサイズがいいと思います。皆さん制服は大抵一回り大きなサイズを買われるんですよ(笑)、入学式なんかは皆ダボっとしたサイズを着てますので、心配ないですよ」
お父さんの見立てとは違っていた。違っていたので、相談して正解だった。そう思った。
娘はもうすぐ中学生になる。
なんだかいろんな人のご好意に支えられてというか、好意というご迷惑に甘んじてここまできたような気がする。
店員さんが親身になって制服を見立ててくれている間、仮衣装の制服に包まれた娘の姿を見ていた。突然なんだか娘が大人になったような感じがした。人の暖かい好意の相乗効果も手伝って不覚にも目ん玉に涙が湧いてきた。目ん玉の周りに表面張力が生じるのが分かり、ひとたび瞬きをしようものならボタボタと決壊しそうだったので、表面張力をなんとかがんばって堅持するために目を見開いたままにした。
娘にしてみればどうだったのだろう。
見立てをしてくれている店員さんの向こうで、大男が歌舞伎役者のように目をかっと見開いたまま仁王立ちしている。そんな自分の父親の姿を見てどう思っただろう。そんな目の前の風景に対し、娘はおそらく意味の分からなさしか感じなかったに違いない。
というか お父さんとしてはその方がラッキーだったような気がする。