去年の夏から秋にかけてのことだった、娘は6年生だった。
娘 「学校で明日プールだわ」
父 「へぇー よかったね 君 得意だし」
娘 「学校のプールって冷たいからあんま好きじゃないさ、で、毎回プール休む子いるんだよ、うちも休みたいんだわ、教室で遊んでいられるし」
父 「休む子って決まってるの?」
娘 「うん だいたい決まってる。WとかMとか」
父 「なんて言って休むの?」
娘 「おなか痛いんだって」
父 「毎回そう言うの?」
娘 「うん」
父 「.......そんなウソは先生にバレてるよ」
娘 「なんでそう思う?本当かもしれないしょ?」
父 「だって朝 ピンピンしてるんでしょ?プールが終わったあとはどう? やっぱピンピン遊んだりとかしてるんじゃねーの?」
娘 「あぁ うん 確かに!」
父 「学校の先生はそんなウソを見破れないと思う?」
娘 「たしかに そうだわ」
父 「なんでそんなウソついてプールから逃げるの?」
娘 「ま 単純にさぼりたいからだと、、、、、間違ってるかもしれないけど、以前Wは皆に自分はクロールができると言ってたことがあったんだけど、でも本当は泳ぎができないのかもしれない。できると言ってしまった手前、皆の前で泳ぐのイヤなのかなぁて思う、Wが水の中で遊んでるのは見たことあるから、水が苦手って訳ではないし、でも泳いでるところ見たことないし」
父 「困ったねぇ そんなウソは絶対通らないんだよ!って教えてやるのが親の仕事なんだと思うんだけどなぁ」
娘 「、、、、、」
父 「そんなウソが通るほど周りの人間をバカだと思ってるのか? それくらいお前はズレてるんだぞ」 って、「周りの人間にいかにズレてると思われてしまうか、そんな想像力がお前は極端に欠如してるんぞ」 って、そういった社会常識を親が教えてやる絶好のチャンスなんだけどなぁ っていうか、そのために親がいるんだけどなぁ、、、」
娘 「んじゃ 子供のせいじゃないの?」
父 「うん 子供のせいじゃないと思う。その考えは通るとか通らないとかの基準みたいなものを常識っていうんだと思う、その親は子供にきびしい言葉でもってそんな常識をぶつけて、社会性みたいなものを植え付けてやらなきゃならないんだと思う、いっぱい苦労した親であればあるほど、それをうまく伝えられえるはずなんよね、また うまく伝えなければならないんだと思う。」
娘 「おとー? なんで怒ってる?」
父 「そういう話を聞くと もうなんか腹立ってくる」
娘 「先生はどう思ってるのかな?」
父 「お腹が痛いと言われたら 男の先生だったら手も足も出ないかもしれないよね、その子の親が学校に協力的な人柄で理解を得られそうな親だったら、先生はそれとなく このまままじゃいけない ということをいろんな角度から親に伝えて、親と一緒になって対処方法を考えいけるだろうけど、でも、その子の親がいま流行りの学校に文句や苦情を言ってくるタイプの親だったら、先生にすればどうしようもないだろうな、きっと、その子がプールとか苦手な体育とかは決まって毎回休んでるんだったら、そういう子の親ってもしかしてもしかして, 学校に苦情を言うタイプの親なの?」
クラスの中で先生に苦情の電話を入れる親が誰なのかは子供達が実はよく知っている。
子供が家に帰り親に「仲間はずれにされた」、とか 「ひどいことを言われた」 とかを訴えると、学校に電話する親が多いのはウチんとこの学校だけではないのかもしれない。この手のお母さんが結構いるらしいのと、この手の内容が多いみたいなのである。
「あのぉ なんか うちの子が他の子を仲間はずれにしてるみたいに言われているらしいんだけど、 うちの子も 今日 ○○子ちゃんから、普通に仲間はずれになってたみたいなんですけど、だからこれって、苦情って訳じゃないんですけど、こっちは一方的にいままで言われてきたんで、一応、報告した方がいいかなぁって思って」、などとである。
母親がまるでコンビニや食べ物屋さんの店員さんに苦情を言うのと同じ感覚で学校に苦情の電話を入れるのである。
「これは苦情ではない」と、いう屁理屈を言いながら学校に架電するのである。
これじゃ先生もたまったものではないだろう。そして、それらの子は自分の親が苦情の電話を入れるところを一部始終目撃していて、困ったことに溜飲を下げてしまい、自分の不満が正当化されたような錯覚を覚えるため、次の日、よせばいいのに学校でペラペラと友達にそのことを一種の自慢話として吹聴するのである。そのためどこの親がいつどんな理由で学校に苦情の電話を入れたのかを子供に聞くと子供がよく知っているのである。上記のような親は自分がクレーマーとして子供達の間で有名になってしまっていて、子供達の向こうには親がいる訳で、その親達の耳にそのことが筒抜けになっているのを知らないでいる。
それはやはりとても悲しいことではないのだろうか。
父 「どうなの? その子の親は苦情を言うタイプの親なの?」
娘 「、、、、、、、」
父 「どうなの?」
娘 「うん」
父 「、、、、、」
娘 「でも Wの家はお母さんも働いてるし、忙しいからそんなことまで教えられないんじゃないのかなぁ」
父 「ばーか!お前が一番仲良くしてるRちゃんの親はどうよ?お父さんは夜遅くまで働いていて、お母さんもクリーンング屋さんで土日も遅くまで働いていて、あそこの親の言葉を借りればだけど、「子供の事をあんまりかまってやれないですよね」ってな 感じでしょ、でもRちゃんは変な子か?お前はどう思う?」
娘 「いや!全然!」
父 「そうだろ!とってもいい子ろ!いまどきめずらしいくらい いい子だろ?やさしいし、ウソはこれっぽっちもつかないし、素直だし、いっつもニコニコしてるし、皆に好かれるような性格だし、人のこと悪く言わないし、見栄っ張りじゃないし、ブラックジョーク好きだし、兄弟と仲がいいし、しっかりしてるし、お前らの世代によくいる、ほらドラマの主人公ようなセリフみたいなことを一切言わないし、自分自信の言葉でしゃべろうとするし、暗いとことか、卑屈なところ一切ないし、なーんも心配しいなくていい って感じの子でしょ?どうかこのまま、どうかこのまま、ずーっとこのまま大人になってぇぇええ って感じの子でしょ?そんでもって お前と違って勉強もよく出来るし」
娘 「ムカ」
父 「だから親が忙しいとかそんなことは全く関係ないんだよ、親がしっかりしてたら子供と過ごす時間が絶対的に少なくても、子供はちゃんとしてるんだよ。その親が社会や人に対して誠実な気持ちを持っている人だったら、子供へ愛情が大きくなればなるほど、反対に子供に強い態度でものが言えるようになるんだよ」
娘 「うーん よくわからん」
父 「ま わからんくてもいいかもしれんわ 子供はな、 親の側の話だからな、働いて世間と向き合って苦労してる人間は自分に多少なりとも自信を持っているから、子供のためだと思ったら、例え嫌われても、厳しい言葉でもってしつけができるんだよ、人間って、人に嫌われるのがイヤでしょうがない動物だから、よっぽど強い気持ちを持ってないと、子供に対しても強く言えないのさ。子供に嫌われたくないという気持ちは、もしかして自分自身を愛してしまっている人間の感情で、本当に愛情が子供に傾いている親だったら、子供のためにへっちゃらで自分を犠牲にできるんだよ、つまりそんな風な強い気持ちを持ってる親は子供を育てるのが上手なのさ、Rちゃんの親がいい例だろ、だから忙しいから子供のしつけができないというのは自分のことしか愛せないタイプの人間なんだよ、、我が強くて自愛の強い、そんな風な せこい人間の言い訳なのさ、でも逆にそんな風に忙しくて苦労してるからこそ、うまく伝えられるはずなんだけどなぁ」
娘 「うーん わかったような わからんような、、、、、、」
父 「先生はどう思ってると思う?そんなこんなを」
娘「その子の事を悪く思うのかな やっぱ」
父 「ブー! ブ ブブ ブー!」
娘 「ムカ!」
父 「その子に 「そんな考え方では将来お前は、とんでもない苦労をすることになるんだぞ。そんなんじゃ、世間は通らないんだぞ アホ ボケ」 っていう常識を植え付けてやれない事に、そういうことに地団太を踏むんじゃないのかな、眼の前で自分の教え子が将来とんでもない苦労を担ぐことになることがはっきりしていて、でも、なにもしてあげられない自分が悲しくて悲しくてしょうがなくなると思うよ、そんな気持ちになるんだと思うよ」
娘 「そんなもんなの?」
父 「そんなもんなんだと思うわ」
以前スーパーの店長をしてる時、高校生のバイトさんの中にこういう女の子がよくいた。
バイトさん 「あのー今日風邪ひいたんで休みます。」
店長 「あ ハイわかりました。」
この子は突然よく休む子で平気で職場に穴を開ける子だった。でも風邪をひいたと言われると
「わかりましたぁ お大事に」
としか返事のしようがないのだが、そこで思うのだが、例えば前の日に出勤してきた時、具合が悪そうで「ゼェーゼェ」言ってって、そして次の日「休みます」というのであれば、職場では「あぁ そういえば昨日具合悪そうだったもね」と言う話になり、次回出勤してきた時も皆に「もう大丈夫?」などと声をかけてもらえるのでしょうが、でも、前日ピンピンしてて、その翌日「今日風邪で休みます」と休み、またその翌日ピンピンして出勤してきたら皆どう思うだろう。職場では皆言葉には出さないだろうが、この子のことを信用しなくなるだろうし、ウソをつく子なんだなぁと思われるだろうし、自分達はその子にウソをつかれたと思うだろうし、そんなウソが通ると思ってるほどズレてるんだなぁと思われるだろうし、つまりこの子は信用というものが一夜にして無くなってしまうということを簡単にしか理解していないのであります。失ってしまうものがどれほどのものかという、そんな想像力も持ち合わせていないかと思うのであります。
もう少しうがって考えればの話ですが、この子の親は子供の前で同じことをやっているのではないか、それを子供が真似をしているのかもしれないなぁなどとも思う訳であります。
この子の親は、子供の前で風邪もひいてないのに「今日風邪で休みます」と相手に電話し、子供には「ウソも方便」だなどと屁理めいたことしか教えてないのではないかと疑ってしまうのであります。
なんで なんで なんで子供にちゃんと教えてやらないのか?ウソをつくとか云々ではなく、そんなたぐいのウソは世の中ではまず通らないんだという常識をぶつけてやるために、親は親をやってるんではないかといつも思うのであります。そんなウソをついたら職場の人がお前のことをどう思うか、口では心配してくれるようなことを言ってくれても心の中でどう思われるか、前日ピンピンしてて次の日「風邪で休みます」という話を100%信じるほどいまの人はバカではないんだということ、今の人はそんなことを簡単に見抜いてしまうということを、そんなウソをついてたら信用がなくなって自分の居場所がだんだんなくなり、職場にいくのがいやになってきて、あげく登校拒否児童のように出勤すること自体ストレスにしかならなくなってやめなきゃならなくなってしまうということを、そんな時、世間の風を吹き込んであげることが親の仕事なんではないかなぁとよく思いました。職場ではそんな社会勉強を手取り足取り教えてくれません。他人だからです。また人を更正させる教育の場でないからです。学校でも世間という社会通年を教えてくれる場ではありません。でもこういうことが我々が生きて行くうえで一番肝心で一番大事な社会ノウハウではないでしょうか?
親が教えなくて誰が教えるんですか。
こういった社会の仕掛けを教える責任は100%親側にあります。学校の先生はそれに知的な色づけをしてくれるだけです。しょんべんに血がにじむ思いをしてきた親であれば、そんな親でればあるほど、堂々と世間の風を子供に吹き込めるはずだと思うのですが、親が吹き込んだ常識は子供の将来の財産そのものでしょうが、常識という風をぶつけてやることは子供にとっての将来の生命の息吹じゃないですか、苦労を舐めてきた親であればあるほどそこの部分を子供にうまく伝えられるはずじゃないですか、強靭な説得力をもって、借りてきたセリフではなく、内実に支えられた言葉でもって、何の演出効果も必要とせず、ヘタクソでもいいから自分自身で経験し編み出した表現力でもって、伝えられるはずではないでしょうか?
スーパーに勤務してた時、「風邪で休みます」という電話を受けたとき、受話器を握りながらいつもその子の親を叱りつけたい衝動に駆られました。親が子供に世間の風を吹き込んでやらなかったら その子がどれだけ将来変な苦労をすることになるのか、そこで待ってる苦労はいわゆる買ってでもしなければならないたぐいの苦労ではなく、いたずらに周りの信用を失うだけの貧しい負の苦労であり、孤独に向かって突き進んでいくだけのなんの建設性もない不毛なものでしかないに決まってる訳であります。そんなすさんだ将来の子供の姿が見えるのは誰の目にも浮かぶ程、あきらかなのではないでしょうか。
お前のその考えは世間では通るとか、お前のその考えは世間では通らないとかの物差しを子供に持たせる仕事は100%親の側にあります。子育てってきっとそんなに難しいものではないはずであります。常識という物差しをもたせられるかどうか、親がどんなに忙しくても、そこんとこだけでも一生懸命やればいいじゃないですか。なんで、なんで子供に持たしてやらないのか、子供がとんでもない苦労をすることがすぐそこに目にみえているのに、何故持たせようとしないか?例え子供にいやがられても、嫌われてもよしんば殺意をいだかれようとも、社会通念という物差しはどんなことがあっても我々親が子供に持たせなければなりません。
それが親の務めであります。
はっきりしてます。きっぱりと言い放つことが出来ます。何度も言います。それが親の務めであります。自分の子供が抱いている常識と世間の常識とのズレを説明してやればいいんです。
説明してダメなら説得すればいいんです。それでもダメなら何度も伝えればいいんです。きびしくしろということではありません。お前がそいう言動をすると相手にどう思われるかという世間の仕掛けを一生懸命教えてやればいいだけの話です。
以前こんなお母さんがいました。
「うちの娘は徒競走で負けるのがイヤだから、ちゃんと真面目に走らないんです。ホント負けず嫌いで困ってしまいます!」
アホかぁあああ!
それは負けず嫌いではなく ただのわがままってんだよ!
それはただのわがままだから全然ダメなんだと言うことを、例え子供に嫌われても、一生懸命そういうことを教える絶好のチャンスだろが!そういうことを教えるために親がいるんだろうが!
しっかりしろ! アホ!
こんな親がいました。
「 「それはダメだよ」って、子供に説明したんですけどねぇ、」
説明なんかいらないんだよ、説得するんだよ! アホ!
こんな親もいました。
「うちはおじいちゃんとおばあちゃんと一緒に同居してるんだけど、年寄りが子供を甘やかせて困るんですよね」
あのなぁ
年よりは孫を甘やかすに決まってんだろ!かわいいから甘やかすのは全国的にそうなんだよ!お年寄りが子供を甘やかして困るんだったら親が厳しくすればいいじゃねーか?その調整役をするのが親の仕事だろ!もしお年寄りが厳しすぎるようだったら、親はやさしくして真ん中に引き戻してやればいいじゃねーか!そういう調整をするために親がいるんだろが! バカヤロ!
すいません、取り乱してしまいました。
話は全然かわりますが、去年、娘が6年生の秋 小学校でマラソン大会がありました。例によって毎年の事ではあるのですが、各学年に見学グループが目立ちました。もしかして全員がどうしても参加できない理由があるのかもしれません。あるのかもしれませんが、どうかズル休みでないことを祈るばかりです。
各学年、マラソンが苦手な子が数人います。
各学年ごとに町内を一周してきて校庭に入って来て、グラウンドを一周してゴールという段取りなのですが、6年生の前の5年生の番の時、大きく遅れて校庭にゴールしようと入ってきた男の子がいました。きっとこの子のお母さんなのでしょう、校庭に入ってきたその子供に近づき、「ガンバレ」と激をとばしました。その後、この子がビリッけつでゴールする様子をお母さんはずっと見守っていました。偶然だったのですが、自分の目がお母さんの方を向いてしまいました。たまたまだったのですが、顔を盗ぬむように見してしまい ハッとしました。見ては失礼なものを見てしまったのかもしれません。そのお母さんの目は真っ赤でした。
ちょっとジンときました。
最後が6年生の番だったのですが、娘と同じクラスにとても太いというか いわゆる肥満の男の子が一人います。
「もっちゃん」と呼ばれてます、たまに あだ名で「モッチ」と呼ばれています。病気で肥満体系らしく、病院通いのためよく学校を休みます。一般の子供達に比べ体力の消耗が激しいため、授業中よく寝ています。どうしても寝てしまうらしいのです。当然運動能力にも限りがあるようです。でもこの子はプールをさぼったことはありません。マラソン大会のズル休みも一度もありません。マラソン大会で この子は必死で走ります。そして苦しくて無理だと感じたらゆっくり歩きます。息を吸ったり吐いたりする苦しさを、呼吸する苦しさをなんとかやわらげようと調整するように、のどの奥から 「ぜいぜい」という音を発ます。少し離れていても聞こえるというか感じるくらいの低い周波数の音で「ぜいぜい」とう音を発します。そして走ったり歩いたりを繰り返し進みます。毎年の事ですが、このもっちゃんがマラソン大会で町内を一周し、校庭のゴールまで辿りつくにはかなりの時間を用します。今回は すでにゴールを終わらせた全校生徒が一年生から六年生全員が、このもっちゃんが校庭に表れてゴールするのを何十分も待つことになります。もっちゃんにしてみればマラソン大会は出たくないのかもしれません。みんなを待たせてしまうし、みんなに迷惑かけるし、一年生くらいの年下からも「モッチ」ってコールされてカッコ悪いし、でも、もっちゃんが校庭に入ってくると拍手が起こりました。全校生徒から拍手が起こりました。ゴールを終了した一年生から六年生まで全員から、「モッチ!モッチ!モッチ!」とモッチコールが起きました。
でもモッチコールを起こしているマラソンを完走した生徒達、その生徒達とは対照的に向き合うように見学グループがいます。見学グループとをうがった見方で対比するのは、とても、いけないことなのかもしれません。本当に走れない理由の子もいるため軽率な書き込みはできません。なので比較は ある意味で悪魔の所業なのかもしれません。
でも どうしてもこう思えます。
あちら側の人間と こちら側の人間とに分かれていることを、この時点で君達の人生がもう決定してしまっているような気がすることを、どうしても区別して思えてしまいます。こんな意地悪な見方は私の悪い点なのかもしれません。
もっちゃんがさらにゴールに近づいて行きます。
モッチコールはさらに強くなります。
拍手の強さと同時に、もっちゃんの親がどんな親か伝わってくるような気がするのも自分のうがった感覚なのでしょうか。忙しいのだと思います、参観日でも確か見かけたこともないし、親にお会いしたことがないので、想像の域を越えませんが、でも同じ親としてこの子の親の気持ちがよくわかるような気がするのです。
もっちゃんの親が、いままで子供にぶつけてきたきびしい言葉や感情、すり減らした神経の回数の多さ、怒る時に生じる眼底出血のような真っ赤な目、きびしく言い過ぎたのではないかという悔恨の情、うまく伝えられない時の自暴自棄な気持ち、顔を真っ赤にして怒鳴りつけてしまった後にくる貧血、思わず手を上げて叩いてしまった時の自虐的な思い、とても乱暴な言葉をぶつけてしまッた時の、その後に襲ってくる死にたい気持ち、大声を出して叱っている時に、うまいこと叱れなくて、それが悔しくて、目玉に湧いてへばり付いてくる涙の表面張力、表面張力が決壊した時のボタボタ、ボタボタと涙を流しながら説教してしまっている尋常一様でない親の自分、その尋常一様でない親の様子にビックリして「ごめんなさい!ごめんなさい!」と謝り続ける子供、子供と どれだけ泣いたり笑ったり怒ったり悲しんだり、そんなことを気の遠くなるほど繰り返してきたということ、子育てって、ある意味で、自分の人生を子供にプレゼンントすることなのかもしれないけど、それはとっても 切ないし つらいし、切ないし つらいんだけれども、でもその反対側には どうしようもない程の喜びがある訳でありまして、だから、だから、そこには あきらかに愛情が存在していて、不動明王のように仁王立ちしている、大きくてたまらない愛情が存在しているのであります。
こんな風に思いました、この子は「ぜいぜい」と苦しそうな呼吸音を発し、親に渡された物差しを懐刀のように忍ばせ、背中にはリュクを背負っているのであります。
大きな背中の割に小さいリュックという後姿の滑稽さを呈しながら、でも愛情一杯を注がれてパンパンに膨れたリュクサックを背負い、肥満の子特有のシャワーのように吹き出してくる額の汗を素手でぬぐいながら、走ったり歩いたりをこれからもやっぱり繰り返していくんだろうなぁと。
うがりついでにもう一つ、自分には子供達のモッチコールがこう聞こえたのでした。
「私達は あちら側の人間になりたくない!
あちら側の人間に絶対になりたくないんだ!」というあらがいたい気持ち、そんな気持が確固たる強い意思表明に聞こえてきて、とても頼もしく感じてしまったのは自分だけだったのでしょうか。