娘の卒業式だった。
自分の娘の制服姿もさることながら、いつも遊びにきてくれている友達の制服姿にも感動した。
式の間中、気になっていたことは、小学校の入学式以来、約6年ぶりに着た自分の背広だった。上着はともかく、ズボンのファスナーが上がらず5分以上かけてやっとズボンをはいた。中年太りになってしまったこの6年の歳月はズボンのファスナーに重くのしかかるようだった。歳月は罪で、ファスナーは罰だと思う。式のあいだ中、前かがみになろうもんなら確実にファスナーは張り裂けてしまうだろう。そのことが気になって神経が分散してしまい、卒業式の感傷や余韻に浸ることなどできなかった。
もひとつ気がかりだったのは、最近自分はよせばいいのにパーマをかけた。
一番大きいカラーで頭の天辺だけ軽くウエイブをかけてもらうつもりだったのだが、その床屋さん、ほとんどパンチパーマ専門の床屋さんだったみたいで、パンチカラーしか在庫がなく、でも軽くかけてもらえれば丁度よくなるのかと思いきや、結果かなりアフロ系の髪型になってしまい、んで、私はどちらかというと東南アジア系の目鼻立ちの持ち主なので、娘にはこう言われる、
「外に出る時は、はずかしいから絶対に帽子かぶってね! ね!」と言われる最近だった。
失敗した髪型に対して娘は
「ドンマイ!」
と、さらに落ち込むような激励をかけてくれていたのだが、しかし卒業式、卒業式は背広なので帽子はやはりかぶっていけない。んで、整髪剤とドライヤーで髪をなるべく真っ直ぐになでつけ、固定スプレー(スーパーハード)で髪を固定し、んでもって式に出かけたのだが、娘に見つかったら、おそらく「なんで帽子かぶってこなかったんだよ!」と睨まれるのは必死だったため、娘に見つからないよう、ひやひやしていたというのが正直なところだった。
そんな卒業式だった。
この学校のセレモニーは卒業生が壇上で校長先生に卒業証書をもらうと、その証書を持って保護者席まで近づき、保護者は席から少し前にでて子を待ち、証書を子供に手渡されるという趣向になっている。
娘の番になった。
娘は校長センセから証書を受け取り段を降りてきた。
証書を手に娘がだんだん近づいてきる。案の定だった。遠くからこっちに近づいてくる娘はなんだか斜に構えたかんじで私を睨みつけている。
「なんで帽子をかぶってこなかったんだよ!」と、言いたいみたいだ。
お父さんが帽子をかぶってくるこないは、小学生の娘の乙女心にとって重大なテーマなのだろう。
人前だったし、例え人前でも娘は平気で自分の不満をぶつけてお父さんを困らせるタイプだし、この場合、自分はなんて言い訳しようか考えるのに実を言うと必死な気持ちでいたと思う。そして娘に噛み付かれるのかなぁと思い、心によろいを着る準備をしていたのだが、卒業証書を手渡すべく自分の目の前に立ち止まり、それから娘は無言で証書を手渡してくれた。渡しながらの娘はお父さんの目を最初っから避けるよう横を向き、照れくさそうにボソッと早口でつぶやいた。
「いままでありがとう」
「...........」
「ん?、、、、、、へ?」
雑音の中だったが自分にはそう聞こえた。
娘は90度きびすを返して歩いて行き、セレモニーの中に消えていった。
お父さんはあっけに取られ、娘の意外な一言に苦笑いするのが精一杯というところだった。
卒業証書とともに一通の手紙が入っていた。学校のはからいなのだろう、こう書いてあった、
「お父さんいままでありがとう。こうやって学校に通えるのもお父さんのおかげです。中学になったら、またたくさんお金がかかると思うけど、よろしくね!!」
そして、おじいちゃんやおばあちゃんに対してもお礼の言葉が書き込まれていた。
親バカになるだろうが、決して感傷に流されすに作文している点が良いと思うし、ホッとする思いである。
でもお父さんはこう思うのだ。
こんな時、親によってそれぞれ感慨が違うのだろうし、自分の場合は偏屈な物事の考え方かもしれないが、お父さんは君に感謝などしてもらいたくないと思っている。なぜなら親が子供を育てるのは実は至極あたりまえのことだからだ。犬だってカラスだってそんなことは生き物はみんなやってる。お父さんは君のおじいちゃんやおばあちゃんに一生懸命育ててもらったから、だから君を一生懸命育てているに過ぎないのだと思う。もし君が将来子供ができ親になったら、お父さんがしたことと同じことを自分の子供に対してすればいい。
子供を育てるってことは、そういうことなんだと思っている。
一生懸命子供を育てる親になって欲しいから、だからお父さんは君を一生懸命育てているんであります。
だから君は親の言うことに絶対的に服従する必要はないし、必要以上に感謝する必要もないと思っている。ここの理屈をはっきりと頭に入れとかなかったら、親も子供も悲しい人生が待っているような気がしてしょうがない。君はいつか自分の人生のことを優先させる時、その時は親をばっさり捨てる時がくるのだと思う。いつかそんな場面に間違いなく遭遇することになるだろう。親を捨てるくらいの強い気持ちを子供の心にこしらえてやることが親の仕事であり、それが親の本当の愛情なんだと、そう自分は感じている。
独り立ちとは親を捨てられる程強い気持ちを獲得できた状態のことを言うのだと思う。
逆にどうだろう、親が子供に捨てられた時、人間の弱い神経構造では、さびしいという感情にただただ支配されてしまうだけなのだろうが、その時へっちゃらでいられる面の皮の厚さを子育てという経験の中で日ごろから親は訓練していかなければならないような気がするのである。親を捨てることができる強い子供と捨てられてもへっちゃらな強い親と、愛情の度合いが強ければ強いほど、ハードルは高くなり、そのハードルを越える準備は並大抵でないのかもしれない。
愛情が親と子を強くし、愛情ほど親子を強く鍛えてくれるものはないのかもしれない。
子供に捨てられてもへっちゃらなはがねのような精神の持ち主にいつかなった時、その時から、その精神を武器に自分の人生をやり直してみても遅くないと思っている。
6年前の入学式から変わったことといえば、おばあちゃんが足が悪くなり杖をついて歩くようになったこと、おじいちゃんは耳が遠くなったこと、そしてお父さんのズボンのファスナーだ。
そういえば、この6年間、お父さんはサラリーマンになろうと思わなかったなぁ。
君が学校から帰ってくるとき、必ず家にいる親でいたかった。そのため、自営の道を選んできた。でも犠牲的な気持ちでそうしてきたわけではない。放課後や休みの日、君とプールに行ったり、テニスをしたり、卓球をしたり、バトミントンをしたり、公園にいったり、一輪車をしたり、図書館に行ったり、買い物をしたり、メダカを取りに行ったり、正直に言うとお父さんは楽しくて楽しくてしょうがなかったのだ。パチンコするより、麻雀するより、飲みに行くより、楽しかったのである。君を育てるお父さんは実は楽しくてしょうがなかったのである。
おかげさまで沢山思い出をいただいた気がする。
お父さんは実は十分幸せだったような気がする。こんな幸せが明日も続けばいいなぁと毎日毎日そんなことだけ思い、今日に至っているような気がする。もし君がいなかったら、のん兵衛でだらしないお父さんは、おそらくアル中で、肝臓病で今ごろとっくに、くたばっていただろう。
だから「いままでありがとう」はこっちのセリフなんだわ まじで、、
本日、写真好きなお父さんにもかかわらず、あまりシャッターを押さなかった。ファインダーを通さず肉眼で卒業式を焼き付けておきたかった。
買いたての君の制服はダボッとしている。
ダボッとした制服を着ている君はもうすぐ中学生というより、いまだ小学生でしかない。
そして背広を着る仕事と無縁だったお父さんは、いまだにネクタイの締め方がうまくない。