誕生会と幼馴染

3.小学生の頃

先日うちの家で誕生会があった。

でも娘の誕生会ではない。娘の友達の誕生会である。

おかしな話だが現実である。人の誕生会がうちで行われる。うちの家は子供達にとっては、「遊んじゃダメ」という日がないため遊び放題なのである。その遊び放題が昂じて、誕生会まで開催される。いまではパーティーグッツまでいろいろある。友達の誕生会はもうこれで何度目だろう。

ここの小学校は日中お母さんが働いている家庭が多いため、本人の家での開催許可が下りない。そのため子供達が相談した結果、結局、ウチの家で話がおさまる。娘はお父さんに

「今日、友達とうちで遊んでいい?」という質問をしたことがない。

お父さんが「いいよ」と言うに決まっているからだ。

誕生会だが、なんと一度は肝心の本人が来なかったこともある。当日用事ができたのだろう。そのため本人不在のまま、誕生会かとりおこなわれたこともあった。(笑)、その時はさすがに、さびしい誕生会だった。(笑)、前の日から飾り付けした小学生の定番と言ってもいい あの色紙をまるめて繋いだチェーンリンクの飾りがやけに貧乏くさく感じたものだ。

 人の誕生会をうちの家でやること自体、実はいろんな問題を内包しているのだが、そのためお父さんはご馳走を作らない。ポテトチップスとジュースしか出さない。その子が家に帰ってお母さんに「ポテトチップスしか出なかったよ」と報告すると、お母さんはホッとするからである。一応自分は調理士だし、子供が喜ぶようなオードブルを作るにあたっては喜んで腕によりをかけてはりきって作ってしまう性格だし、でも父子家庭のお父さんがご馳走を作ってくれたということになると、相手のお母さんを恐縮させてしまうどころか、恥をかかせてしまうことにもなりかねないので、そのためポテトチップスしか出さないことにしている。開催時間もお昼ご飯をそれぞれ食べ終わった昼1時過ぎからと決めている。

 友達が家の玄関に来た時、隠れていたほかの子達がサプライス的に飛び出して来てクラッカーを鳴らして、「おめでとー!」とやる子供達の喜ぶ姿を見ていると、他の父兄さん達に「困ったお父さんだなぁ」などと、へき易されて悪く思われることなど、どうでもいいことにしか思えないのである。

お父さんお母さんごめんなさい。ホント、ごめんなさい。

 いままで自分は子供や子供の友達に対して出来る限り寛大な対応をとってきた。何故自分はそう考える親になったのか、

それには訳があった。

自分が子供の頃、小学3年生の初めに転校生がやってきた。名前を宮崎君という。彼の家庭はいわゆる転勤族で、後で分かったのだが、お父さんが某大手企業というかいまも業界代1位の生命保険会社に勤めている転勤族だった。(今はもう退職しているしい)。いろんな土地を転々としてこの町にきた。6年生の卒業とともにまた転勤していった。その後お父さんはかなり上の役職までいったらしい。大手企業によくある転勤するたびに偉くなっていく、いわゆる出生街道まっしぐらの親父さんだったようである。いろんな土地を転々としてきた彼とその家族は、いろんな土地のイントネーションを足して割ったような独特な語感で話をする特徴を持っていた。博多弁でもなく東北弁でもなく大阪弁でもない、土地を特定できないような、各地の地方のいいとこ取りをしたような耳障りの良い音色で話をする家庭の人々だったように思う。

 自分は毎日のように彼の家へ遊びに行った。彼は人気物だったためもあって毎日複数の子供が彼の家に集まってきた。大抵どこの家も、遊べる日もあれば遊べない日もあったりして(うちもそうだったのだが)、ここの家は遊べないという日が全く無かったのである。またどこの家もお母さんが機嫌のいい日と機嫌の悪い日があったりし、顔色を伺いながら家におじゃまさせてもらうというのが普通だったように思う。しかしグンを抜いて宮崎君の家は違っていた。特にお母さんがマザーテレサみたいにやさしい感じの人で、いつもニコニコ対応してくれ、どたばた遊ぼうが、間違って置物を壊してしまおうが、どの部屋に入ってかくれんぼをしようが、なんでもOKの遊び放題のうちだったのである。そして必ずお菓子とジュースは欠かさず出してくれるような家庭で、自分にとってこの家庭は桃源郷のような存在だったのである。確か妹さんもいたと思う。自分は間違って妹さんのおもちゃを壊してしまったことがあった。

「あっ! ご ごめん!」と言うと、

その妹さんはニコニコし、すぐ瞬間的に許してくれたのである。

「え?こんなやさしい小学生の女の子がいるのかぁああ?」と、思ったのを覚えている。

なんだぁ? この家庭はぁああ? す、すげぇえええ!

自分はその家庭に憧れたのだった。

そしてもし自分が大人になり家庭を持つようになったら、宮崎君の家のような家庭にしようと思うようになった。当時、自分は小学生だったため、そんなに強くはっきりした誓いではなかったと思うが、長ずるにつれあの家庭のステキな様子が鮮明に思い出されるようになり、親になった今、あの宮崎君の家庭の影響がどうしようもなく染み付いてしまったのである。

そんな彼から36年ぶりに連絡があった。

インターネットで検索をたどって、私の商売のサイトを見つけてくれメールをくれたのである。小学校の同級生です、ホームページ見てなつかしく想いメールしました。九州で薬局してます。仕事とは関係ないメールですみませんでした。俺は息子二人、嫁一人のパパしてます。(昔の面影はないかも?)。実は、明日、上の息子の大学受験で一緒に札幌に行きます。浪人覚悟なので楽な旅行みたいなものです。時間が合えば少しでも会えませんか?よければメールください。

そして会うことになった。

その日は奇しくも、うちの家で娘の(友達の)誕生会がある日だった。偶然だったのだろうか、必然だったのか。

その日、13時20分の列車で到着するはずだった。自分は改札口で彼を待った。列車が到着した。平日なため改札口に向かってくる乗車客は大勢ではなかった。自分は絶対に見つけられる自信があった。彼にしても同じだろう。彼の顔かたちは鮮明に覚えている。が、しかし、彼は降りてこなかった。しばらく、うろうろし、いや絶対にこの汽車だったはずだ、絶対だわと、思い直し携帯でメール打った。

「どうしたの?着いた?どこにいるの?」

それから一分もしないうちに返事が返ってきた。すぐ返信が来たところをみると彼もそうとう焦っている様子が伺えた。

「玄関のところにいるよ?」

へ?

後ろを振り返った。

見ると、折りたたみの携帯を全開し、それを右手に持ち、たった今キーを叩いていたことを思わせるように親指が直角に曲がっている男が立っている。

宮崎君だった。

「おぉ! お み みやざき?」

「おぉおお! イシヤン?」

当時自分は「イシヤン」と呼ばれいたことを、その時36年ぶりに思い出した。懐かしい自分のあだ名の響きだった。二人の間にはお互いがお互いを認識することができない程、歳月が流れていたのである。お互いの間に流れたのは懐かしさもさることながら歳月の長さだったことを実感せざるを得なかったことが、そのことが少し残念でならなかった。正直に言うとそんな思いがしたのである。

 それから彼を車に乗せて市内をドライブした。とりわけ彼が住んでいた住宅地をグルグル回った時、彼のテリトリーはイコール自分のテリトリーでもあったので、懐かしいというより、過去へタイムスリップしたような錯覚だった。遊んだり、喧嘩もしたり、仲直りしたり、いじめたり、いじめられたり、こんな小さな地域でお互いが生きていたことを思うと、妙に感慨深いものがあったのである。

そして自分は切り出した。あのことを。

 今、自分が親になり出来る限り子供達に寛大に対応しているということ、実際、今まさにこの時間帯も友達の誕生会がうちで行われているということ、あのマザーテレサみたいにやさしいおふくろさんは元気なのかどうかということ、宮崎君の家庭の影響を受けて感謝しているということ、すると彼は頭をボリボリ掻きながら博多弁でこう言った。

「ま、おふくろは確かにやさしい人だけど、あれはさ、あれは、うちの親父の教育方針だったけん」

「へ? 教育方針?」

彼は続けた。

「そう、教育方針だったのさ、人の家に遊びに行くのは絶対ダメ、でも遊びに来るのはOK!そういう親父の考え方やったけん」

つまりこういうことらしかった。

あれは土地から土地を転々とし出世街道まっしぐらなお父さんが考え出した一風変わった教育方針だったらしいのである。

「子供というのは他人様の家へ遊びに行くと迷惑をかける。人に迷惑をかけては絶対いかん!どうせ迷惑をかけるならうちで遊べ!うちは迷惑がかかっても一向にかまわん!」

そういうことだったらしいのだ。そんなお父さんの考え方に家族全員が一致協力していたらしいのだ。そういや宮崎君がうちの家に遊びにきたことはなかった。泊まりに行ったことはあるが、来たことはない。彼は他の家で遊ぶことを許されない子供だったのである。だからいつも「うちで あそぼー うちであそぼー」と連呼していたのである。放課後もし他の誰かの家で遊ぶことになろうもんなら、彼は遊び相手を失い、さびしく一人で遊ぶことを余儀なくされたのである。なので盛んに自分の家で遊ぶことを叫ぶように「うちで、あそぼー、うちであそぼー」と連呼していたのである。

あの遊び放題の家庭には親父さんの考え方の仕掛けが働いていたのである。

いやはや、聞いてみなければ分からない。

自分はてっきりマザーテレサのようなやさしいお母さんを核としたマリアさまのような母なるイメージ家庭を想像してしまっていたのだが、でもその向こうには厳格な父親の威厳が働いていたのである。

 さてここからは自分の想像になるが、でも何故そんな一風変わった教育方針をお父さんは貫いたのだろう。

それは もしかして、いろんな土地を転々とせざるを得なかった親父さんの子供に対する思いからではなかったのだろうか。自分の子供がその土地土地で、さびしい思いをしないように、友達が出来るように、いじめられないように、またいじめぬように、知らない土地で自分の家族と結束を硬くし、家族を守るために、そのために考え出した親父さんの家族を防衛するための策だったのではないだろうか。おふくろさんは親父さんの考え方に協力し、遊びにきてくれる子供達に功徳を施すような気持ちで我々に接してくれていたのではないのだろうか。

自分の子供も転校を経験している。転校した先で子供がどんな思いをするのかを少なからず知っている、だから当時の彼の親父さんの気持ちが分かるような気がしてしょうがないのである。自分の場合の転校はたった一度だった。でも宮崎家は1度や2度でなかったのである。

親父さんの思いはいくばかりだったのであろう。

自分は例え錯覚だったかもしれないが当時この家庭にオーラみたいなものを感じたのである。そう感じたのは自分だけではなかったはずである。あの家庭に遊びに行った当時の子供達全員が感じていたはずである。そのオーラは自分の想像とは別種のものだったが、しかしオーラの発信元は親父さんの大きな愛情だったようである。

今、自分は子供を大切にしている。そんな風に思える。大声でそう叫ぶことができる。娘が連れてくる友達まで宝物に思えるのである。そんな親になれたのは、幼馴染である宮崎君ちの家庭の影響がかなり強い。彼の親父さんの考え方に翻弄されたとも言えなくもないが、勘違いはどうあれ、彼の親父さんの愛情は強くてあまりに強烈なものであったため、きっと、きっと、いろんなところに、いろんな形で飛び火したに違いないのである、そんな風に思う。そんな愛情を被爆してしまった人間の一人として思います。

宮崎君と宮崎君のお父さんとお母さん妹さんへ。

どうもありがとうございました。皆さんのご健康を不詳わたくし微力ながら皆さんが以前住んでおられた北の地よりお祈りしております。

タイトルとURLをコピーしました