学校から帰って来た娘が私に、
娘「ねぇ おとー あれ! ほら あれ!約束したでしょ ね あれ!」
父「ん?なに? あ あれ?あの あれのこと?」
約束させられてたことがあった。
娘の母親の写真だった。
母親の写真を見せて欲しいと最近何度も要求されるので、
父「わかった わかった さがしとく わかった」と生返事をしてしまった。
当時 写真など忙しかったため ほとんど撮っていない。でも何枚かあったはずだ。お父さんとお母さんは近所のお寺で式をあげただけだ。披露宴などやらなかったし、でも、その時親戚の人が撮ってくれた写真があったはずだ。おばあちゃんにも協力してもらってあっちこっち引っ掻き回してやっと出てきた一枚の写真があった。学校から帰ってくるまでに間にあった。
「あーよかった」
帰ってくるなり昨日のお父さんの生返事の約束を担保したみたいに娘は詰め寄ってきた。
「ねぇ ほら 写真 約束!」
娘に写真を渡した。
写真は男女対が写っている。片方が母親だった。でもその後の娘の反応は意外だった。
娘「え?隣の男の人 誰?」
娘が写真を見たときの第一回目の感心事は写っているお母さんより、そのお母さんの隣に座っている見知らぬ男性に対してが最初だった。見知らぬ男がお母さんの隣に接触するように位置して微笑んでいるのがなんだか気に食わなかったのだろう。
その男性に対し露骨に不快を示した。
娘「だ 誰?」
父「ん?誰って 何 誰?」
娘「ほらこの人? 誰?」
父「あぁ それ? それお父さんだよ!」
娘「へ?」
父「若い頃のお父さんだよ」
よく見るとお父さんであることに娘はやっと気が付く。
娘「ひ ひぃえー!」
娘は大袈裟にのけぞってリアクションする。
10年前の若い頃のお父さんが写真に写っている。そのことに娘は興味深々だった。生まれてはじめてみるお母さんより、お父さんにも若かりし頃があったんだというようなおかしさと、1人前に男女対で座っているお父さんに青春らしき臭いを感じてそれがとても意外だったのだろう。
そのあと やっとお母さんを眺めてくれた。眺めたが、穴のあくほど写真のお母さんを眺めるのかと思いきや、娘「ふーん」といっただけで、その写真を引出しの中にポンと放り込み友達と約束していたらしく、
「M子ちゃんちに遊びに行ってくるわ!」と、あわただしく出かけてしまった。
意外だったのはお父さんだった。娘がどんなリアクションするのか少しだけ期待していたのだが期待は空振りなった。引出しの中に写真を放り込む動作はよく我々が迷惑なダイレクトメールをゴミ箱に投げ捨てる様子に似ていた。そのため少しがっかりしたのだ。
父「なんだぁ、そっか、そんなもんか、そんなもんなんだなぁ、しょうがないよな記憶にないんだし」そう思った。
正直言ってやっぱりがっかりだった。
その夜のことだった。
いつものようにお父さんはアルコールを引っ掛け布団に入った。おそらくいつものようにすぐ寝てしまったと思う。でも夜中に目が覚めた。珍しく目が覚めた。目が覚めて当たりを見た。何時だかは分からない。いつもお父さんにべったり引っ付いて寝ている娘が隣にいない。
「あれ?どこいったんだ?」
辺りを見回す。足元の方を見た。見ると娘が布団の上におっちゃんこしている。暗闇の中に娘がいた。
うちは夜中に家族がトイレに行く時 真っ暗闇だと危ないので廊下にわずかな光量の電球を灯している。その廊下からもれてくる薄明かりに娘の上半身がぼんやり照らされていた。向こう側を向いている。何やってんだ。
「何してるのかなぁ」と思い首だけ持ち上げて目を凝らした。
見て息をのんだ。
なんと 娘は写真を見ていた。
あの写真を見ていた。
昼間とは打って変わって、まるで宝物を扱うように写真に接していた。指紋が付かぬよう付かぬよう手のひらに載せる仕草はとてもデリケートでソフトな感じだった。昼間の写真に対する扱いとは別物だった。暗闇の中なので写真の表面は見づらいのだろう 廊下から漏れてくる薄明かりに写真をうまいことテカらせながら眺めていた。薄明かりを捕らえるため写真を最善の角度に保つ君はもうどれくらい眺めることに時間を費やしたのだろう。娘の顔は見えなかった。向こうを向いていたため見えなかった。見えなかったのだが、でも母親似のしもぶくれたほっぺたの様子からして娘の今の表情がお父さんにはだいたい想像できた。
君は微笑んでいた。
写真を君は微笑(ほほえ)ましく眺めているようだった。
昼間はおそらく照れくさかったのだろう。
大人に表情や気持ちをモニターされるのがいやだったのだろう。だから若い頃のお父さんにのけぞってみせたり、写真を無造作に扱ってみせたり。夜中のこの時間帯を狙っていたのかもしれない。お父さんは酒をひかっけると5分もしないうちに寝てしまう。そのことを娘は十分知っている。酔っ払ってお父さんが寝てさえしまえば部屋は自分だけのものになる。たった一人だけの空間で君は母親と思う存分対面したかったのだろう。見てはいけないものを見てしまった気がしたけど、お父さんにできることは例によって物体になることだけだった。寝てる振りをすることに全神経を総動員しなければならない。でも全神経を集中する緊張を味わう一方でうれしかった。君が微笑んでいたことがお父さんはうれしかった。微笑んでいてくれたことが、うれしくてうれしくてしょうがなかった。
君がはじめて見た母親に対する気持ちの方向は憎しみではなかった。
君がはじめて見た母親に対する心境はイライラではなく許容だった。そして動揺ではなくおちつきだった。不安ではなく懐かしみのようだった。否定とかではなく肯定だった。感傷や不満やため息のたぐいではなくマリア様のような微笑みだったのだ。
沈黙的な暗闇の中から娘の静寂さもいっしょに伝わってくる。君の精神が安定していることが伝わってくる。君がちゃんとしてることが しっかり伝わってくる。
写真を微笑む君の後姿は痛々しさこれっぽっちもなく神々しく神聖な福々しさに包まれていた。母親にやっと会えたというときめきより遠い記憶のひだをたどり昔を懐かしむ老人のように君の回りの空間は緩慢で穏やかだった。
もし神様がいるとしたら感謝したい、そう思う。
間違いなく何かが君を守ってくれてる。そう強くそう感じざるをえなかった。
物体化することしか出来ない非力な自分の変わりに何かが手を差し伸べてくれているとしか思えなかったのだ。娘が憎しみに向かわないようガイドしてくれている何ものかにお礼を言いたかった。ご先祖さんなのか、神様なのか、よくわからないが、子供が壊れないようがんばってくれているなんだかわからない何ものかにぜひ 深々とこうべをたれたかった。そして酔っ払って寝ていた私をタイミングよく起こしてくれたことに対して..
娘の後姿を目撃させてくれて..
娘は満足したのだろう、それからしばらくして写真を引き出しに戻し布団にゴソゴソ入り込んできた。君が寝入るまでの間お父さんは起きてることがバレないよう緊張を続行しなければならない。お父さんは寝返りを打つふりをして娘に背中をむけた。娘に対し正面のままで寝てるふりを持続させる自信がなかったからだ。隣の娘が寝入るのを待つのは今度はお父さんの番になった。
いままでは忙しい生活だったが、娘と一緒にいてずっと考えていたことがある。
ひっちゃかめっちゃかな生活だったが、その一方で頭の中でいつも考えていたことがあった。それは、将来自分は子供を信頼できる父親になれるのだろうか?ということである。
心の底から子供を信頼できる父親になれるのだろうか。
ずーっと心の中で強迫観念に襲われながら自問自答してきたような気がする。ずーっと頭の隅っこで引っかかっていたものがそれだった。もし子供を信じることが将来できなければ、待っているのは苦しみだろう。親も子も苦しみの中でもがき続けなければならない。
でも今日思った。
もしかしたらなれるかもしれない。
ひょっとしたら自分は子供を信頼できる父親になれるかもしれないと、そんな光みたいものがわずかだけ見えてきたような気がする。今日の君の後姿はお父さんからみれば奇跡を見せられているようだった。無信仰な私がそういうのはおかしな話なのだが、子供と一緒に生活してきて思うことは こんな奇跡をしょっちゅうみせられるのだ。この奇跡に遭遇する度ごとに自分は変わってきた。自分は決して頭のやわらかい方ではない。しかしありえないことに遭遇するといやでも思い入れが訂正される。その時もそうだった。自分の非力さを哀れむように何か大きなものの力が脈々と働いていることを感じざるを得ない。
子供を信じるということはその脈々としたものに疑いの念をはさまないと言うことではないのだろうか。
自然の猛威に対して人間があまりに非力で愕然とするように、子供を守ってくれる何かの力は人間のおよびもしない所のものかもしれない。
だとしたら親の仕事はひたすら祈り感謝することではないのか。
正直言って自分は信仰には興味がない。おそらくこれからもそうだろう。むしろ神様に苛立ちしか覚えないような人生を送ってきた。(笑)が、こと子供に関しては自分は敬虔な信仰者に変貌する。神様を素直に受け入れる自分がいる。都合のいい信仰心だが、逃げる自分だからなのか親バカならではなのか。どちらでもない。どちらでもないような気がするのだが、ただ一つ言えることは
自分は報われたのではなく救われたんだということである。
お父さんは布団の中でガッツポーズをとった。
今日のこの日がくるのをなんとなく待っていたからだ。大きなハードルをやっとこ一つクリアできた気がした。甘いかもしれないがなんだかそう思えた。
もし母親に対し娘が憎しみの根を芽生えさせたらどうしよう。
また反対に、心奥では恨み しかし表面では許そうとする虚勢を張ったらどうしよう。だとすれば そのゆがんだやさしさは いつ どんな形でリバウンドするのか?恨みの感情は身体の感情と考えればいいのか、それとも心の感情なのか?それを見分けるためにどうしたらいいのだろうか?その時自分はそれをケアできるのか?そんな芸当をどうやったらいいのか?そんな心理分析官みたいなことを自分がはたして出来るのか。
できる訳がない。
どう考えてもできる訳がないのだ。
不安の連鎖は取り越し苦労や親バカと連動して深みにはまっていった。この何年かそのことばかり考えていたような気がする。考え事は不安となり心配事に化けていった。でも今日、その不安はなくなった。
娘の微笑みはお父さんのもろもろの不安をたった一瞬でかき消してくれたのだ。
ガッツポーズをとるお父さんの拳には一度手にした宝物を絶対にもう手放さないぞという気概がこめられている。
これから乱暴なセリフを君に堂々とはけるような気がする。
君にきびしい言葉を堂々とぶつけることができるような気がする。
無理解な頑固親父でツラっとしていられる自信がフツフツとみなぎってくる。
例え君に嫌われても 憎しみを抱かれてもお父さんはおそらく動じないだろう。なぜなら子供を信頼することが出来るというキップを手にしたからだ。
長年抱いてきた不安が消えた。
まるで頭の中でドーパミンが分泌されたかのように恍惚とした気持ちが布団の中の自分を襲う。何年かぶりで味わう心地よい眠気の中でかすかに思う。
お父さんは心の中の引き出しを開ける。
その引き出しのタブには「思い出」と書かれている。馬鹿みたいに感傷的なタブの名称なのだが、それを感受できるほど今の自分は素直な気持ちになっている。その引き出しの中にはそろそろ整理しなければならないほどいろんな物が乱雑に詰まっていのだが、今日一枚の写真がその引き出しに加わることになる。
後姿の写真だ。
その写真にはお父さんが心の写真機で撮影した君の後ろ姿が写っている。
薄明かりにぼんやり浮かんだ後方斜め45度のロケーションの君、写真をうまいことテカらせるため最善の角度に保とうとする様子、そして微笑んでいるであろう下膨れたほっぺたのプヨプヨ感がその写真にははっきりと映し出されている。自分が人生を閉じるまで、もしかすると閉じてもなお、その写真は決して色あせることが無いのだろう。
夢なのか妄想なのか そのあと眠たさの中で自分が見た光景はこうだった。
自分は駅にいた。
とてもやさしそうな車掌さんが自分を向かえてくれる。
電車に乗る。
その車掌さんにキップを渡す。
電車が動く。
そこで思った。
自分は以前からこの電車に乗りたかったんだということに気が付く。でも何年もの間、乗りたくても乗れなかった。そんな電車だった。そうか ただ乗りしようとしてたから乗れなかったのか。
ただ乗りしようとしていたから駅員さんに乗車拒否されたり,ガードマンに羽交い絞めにされて追い返されていたんだ。
キップが必要だったんだ。
信頼と言う名の電車に乗るにはキップが必要だったんだ。それに気が付くのに自分は9年もかかったのか。そのキップは引出しの中にあった。思い出の中にまぎれこんでいた。前々からちゃんと用意されて、気が付かなかっただけのことだったんだ。
電車はどこに行くんだろう。
自分はどこに運ばれるんだろう。どこに行くかも分からないというのに不思議と不安がない。
思えば、懸命に子供の手を引っ張ってきたつもりだったが、手を引っ張られているのは自分だった。
そんな間抜けな自分がいる。
本日その緊張の糸がとれた。
子供をがんばって育てるぞという気持ちにしがみつきそれを生きる糧にしてきた自分はとんでもない思い違いをしていたようだ。子育ての気負いそのものが自分の甘え以外のなにものでもなかったのかもしれない。自分の力不足ゆえ子育てにしがみついてきたのかもしれない。今まで自分が生きてきた意義みたいなものがどうしても見つからない、そんなしょうもない人間であったがゆえに、子育てと言う隠れ蓑の中で芋虫のようにじっと死んだふりをすることしかできなかったんだろう。幼児のような甘えん坊は自分自身だった。
親の後姿を見て子は育つと言う。
でもうちは反対らしい。
眠たいので寝ようと思う。
車掌さんにパンチングされたキップを胸の上に置く。今度の乗換えの時 また必要かもしれない。無くすと車掌さんに怒られるかもしれないのでしっかり握り締めようと思う。握り締めた丁度その下で自分の心臓が脈打っている。
心臓がそれこそ拳大の自分の心臓がガッツポーズをとっているように思えた。