将来の娘へ

3.小学生の頃

君が小学校を卒業してから、4ヶ月くらいたっての時期に、この手紙を書いている。

とうとう小学校を卒業してしまった。

あっという間だった。6年前の保育園の卒園式のことをはっきりと覚えているため、尚更あっという間に感じたのだと思う。

ほんとにあっという間だった、というのが率直な感想だ。

 お父さんは小学一年生の初日の君の通学場面を覚えている。強い風でも吹こうものなら、飛ばされるんではないかと思うくらい、フラフラと歩行する姿をずっと後ろから見ていた。やっとこ小学校へと向かって行く感じはたまらなく頼りなく、筋肉がまるでついていないガリガリに痩せた後ろ姿が段段と小さくなって行き、後ろから見る膝の関節はまるで理科の実験室に置いてあるガイコツの模型そのものだった。

それから6年がたった。

 まっさらのおろしたての中学校の制服を君がまとっている。しかも、3年間ずっと着なければならないため、大きなサイズの制服を選んだ。本当のことを言うと成長に合わせて、毎回、高い制服を買っていたら出費が大きいため、かなりダボっと目を買ったのだが、でも、ほとんどの親が同じ理由によりダボっと目を子供に買い与えるため、そのために、なんの違和感もない光景になっているところが全体的に微笑ましい。そんな制服を身にまとった君は卒業式のセレモニーの中にいた。セレモニーの途中、保護者への手紙という段取り辺りで、君は手紙を渡してくれた。学校の計らいなのだろう。

「いままで、育ててくれてありがとう。」、そう書かれていた。

ドラマならここでお父さんが涙を浮かべBGMがスタートしそうなところだが、自分にはそういった感傷が不思議と起こってこなかった。これからが本番だという思いが強かったからだと思う。
近い将来に来るであろう反抗期や高校受検、友達とのトラブル、思春期の悩み、金銭的な不安、そんな悩みというか不安というか心配事というか、とにかくそんなマイナスの要素が一緒くたになって自分に襲いかかってくるような気がして、とても祝杯的な気分にはなれなかったのである。

 振り返れば、この6年間のお父さんの子育ては、実に単純で簡単なものだったと思う。

お父さんは君に運動をさせたのである。
小学校にあがるまでの君は体が丈夫ではなかった。とくに喘息と皮膚炎には、ほとほと悩まされた。いろんな病院に通ったが症状が良くなることはなかった。だから君が学校から帰ってくる時、なんとか仕事のやりくりをして、お父さんは必ず家に居るようにしたのだ。学校から帰ってきて、もし君が友達との約束がなかったとしたら、水泳、硬式テニス、卓球、バトミントン、このうちどれかを本人に選ばせ運動しに行った。(6年生からは1輪車が加わった。)その他、上達はしなかったが、リフティング、バレーボール、キャッチボール、サイクリング、BMXなどにも挑戦した。結果、水泳はクロールで1キロ泳げるようになったし、テニスはボレー&ストロークやグランドストロークができるまでになり(残念ながらボレー&ボレーやゲームまではいかなかったが)、卓球はその後、中一の夏で4級を取得するまでの素地を作れたんだと思う。バトミントンはとりたてての上達はなかったが、ただの打ち合いなら、そこそこまでできるようになったという感じだと思う。この5種目にいたっては、おそらくコンプレックスを抱くことはないと思うのと同時に、いつのまにか君は風邪もひかない体を手に入れていたように思う。また体力の向上と比例して自信みたいなものも芽生えていったんではないか。特に6年生で1輪車がある程度出来るようになってからは、自分は運動系は決して苦手ではないんだということを改めて強く自覚したみたいだった。
最初はダメでも同じことを延々繰り返すことによって、自然に神経がつながっていき出来るようになる、そんな基礎練の大切さを身をもって理解できたみたいだった。ここんとこの理解はとても大きいような気がしてならない。

なんでもそうだと思う。仕事でも趣味でももしかして、君が将来、夢を持ちそれを実現しようとする願望達成欲が発生する、そんな際でも、基礎練し、神経の軸さくが伸びていき、神経細胞の繋がりの誕生と崩壊の繰り返しを経て、出来ないことが出来るようになる。この人間の能力のカラクリを身をもって理解できたこと、そのことそのものが、将来、君の大きな財産になること他ならないように思うのである。そこら辺のことを、頭だけで理解するのと、そうでないのとの違いは、大人になるに従い必ず表れてくる。お父さんはそう確信しているのだ。
お父さんの長期に渡るこの作戦は見事にとは言えないまでも、なんとなく、そこはかとなく成功したと言ってもいいだろう。自画自賛なので底がしれているかもしれないが。(本当のことを言うと、いろいろ思うようにいかないで立ち往生した場面の連続だったのだが、)とにかく運動させようというお父さんの単純明快な目論見はめずらしく吉の方向に出たように思う。

君は丈夫な体を手に入れた。

なので、これだけでもお父さんの親としての役割のほとんどは終わったと言ってもいいだろう。
もし、この辺りで、お父さんが死んでも、なんの未練もなく後悔もなく、あの世へ旅立てるような気がする。お父さんは、そろそろ体力や健康に自信が無くなってきた、そんな年齢になってきたため、自分が居なくなったらの仮定の話もしておかなければならない。

 実を言うと、お父さんは小学校に上がる前、喘息で咳き込む君を抱っこしながら神様に誓ったことがある。
君の喘息が始まると、家中の皆が眠れなくなり、皆が寝不足になってしまうため、いつも車に乗せ、ドライブに出かけた。車の中の振動が揺りかごの役割を果たし、咳より疲れの方が勝ってくれると、やっと寝てくれた。そしてお父さんはコンビニの駐車場で夜明けの缶コーヒーを飲む。少しあけ明け白くなってきた夜明け間近の、暗闇の方が圧倒的に多い、そんな空に向かって神様にお願いした事がある。

「この子の体をを丈夫にして欲しい。もし丈夫にしてくれるんだったら、自分の子供に、それ以上の多くを望まないだろう。」

お父さんの祈りはめずらしく届いてしまったようである。
神様に完全に見捨てられたとばかり思っていたお父さんの人生だったが(笑)、セレモニーの中の君は今年も無遅刻、無早退、無欠席だった。お父さんとしてはテストで良い点を取ってくるよりもうれしい結果を与えられたような気がする。いや、でもまだまだ安心できない。もう少しだけ子育てをがんばろうと思っている。

 君と運動の相手をしたり遊んだりは実を言うと決して苦痛だったわけではない。むしろ楽しくてしょうがなかったように思う。
世のお父さんは子供と遊ぶことを「家族サービス」と称して、まるで重たい腰を上げて体にむちを打たなければならないカテゴリーに追いやってしまい、仕事の延長みたいにして子供と遊んでいる姿をよく見かけるのだが、正直言って、自分にとっての子供との遊びは決してそんな感じではなかった。むしろ親のこちらが遊んでもらっているという様子に近かったように思う。
君と遊ぶことはお父さんにとって、楽しくて楽しくてしょうがない時間をプレゼントされることだった。ちょっとずつではあるけれども、君が上達していく様子を目の当たりにすることは、とてもうれしいことだったと思うし、上達すればするほど君はその種目が好きになり、好きになったらまた少し上達したりの繰り返しで、そんなことを目の前で目撃できることはお父さんにとって、まごうことなく、実感を伴う幸せな時間そのものだったように思う。

 また、こうも言える。
子供と遊ぶことが大好きな自分の性質はそれまで明らかに死んでいた部分だったように思う。
そんな側面を子供に引き出してもらったような気がしてならない。どちらかと言うと、陰性で閉じこもりがちな性質傾向だとばかり思っていた自分だが、そんな自分の性質を明るく開花させてもらった喜びはとても大きいように思う。おそらく自分の人生の中で大きな花が咲いた時期はいつかと振り返るなら、君と遊んだ年月だったと即答できるだろう。

 しかし、そんな風に毎日、なんだかんだといつもお父さんと過ごしていた君だが、時間を持て余したり、暇でどうしていいかわからない的な、そんなさびしさを感じることはまずなかったと思うのだが、でも、でもやっぱり、母親のいないさびしさをいつも抱えている子供であると言うことを、お父さんは見逃していた訳ではない。そのため父親というものは代用品でしかないことを心に命じない日はなかったように思うし、君と過ごす毎日は楽しかったからと言って、お父さんは決して勘違いをしていた訳ではない。父親の自分ではどうしても埋めることのできない溝を常に感じていたからだ。その溝を意識してか、何かにとりつかれるように君と遊び、気がつくと君と遊ぶのが楽しくてしょうがないという境地にまで追いやられてしまった己のざまがあるのかもしれない。もしかすると、後者の方が正しい自己分析のような気がする。

ともかく、君は小学校を卒業した。
それはそれでとてもめでたいことなので素直に喜ぼうと思う。

 んでもって、もう一つ特に書き込みをしておきたいことがある。

君との14年を振り返って、こう思っている。
お父さんは実は思い出で一杯なのである。小さかった君は、お父さんとのひっちゃかめっちゃかな生活をほとんど覚えてはいないだろうし、少し覚えていたとしても、おそらく君は長ずるにるれ、どんどん忘れていくのだろうけれども、でも自分だけが覚えていて、逆に君が忘れていくということに対してお父さんは寂しさをこれっぽっちも感じていない。むしろ、少しほくそえむ気持ちでいる。思い出を独占できるからである。この思い出の独占という権利は実は親だけの特権のようなものなのかもしれないが、これから時が立つにつれ、むしろ思いではお父さんにとって鮮明になっていくのだろうし、それはお父さんだけの思い出であり、いつかお父さんが往生する時、自分の回りに百貨楼蘭のように輝く思い出が最後に自分を見守ってくれるようなそんな気がしてしょうがないのである。人それぞれの価値観があるのでここら辺の感じ方は皆それぞれ違うのかもしれないが、自分にとっての「幸せだなぁ」と思う最大の瞬間を特筆するとすれば、自分が死ぬ時の、自分の回りに輝く色とりどりな思い出なのではないかなぁと、そんな風に思っているのであります。

君が5歳くらいだったかなぁ、昆虫採取するべく、結構 山の奥まで入っていき、君は突然、小声になった。

「おとっ!  いままで見たことがない そんな そんな 蝶々が おとうの足元にいるぅぅううう!」と、言われ、

見ると、黄アゲハだった。
その蝶々を採取する時の緊張感をいまでも覚えている。止まって休むことの無い鬼ヤンマを延々追いかけたこと。

ある日、公園でカラスアゲハが飛んでいた。捕まえようと思ったが、道具は何も無い。捕まえようと、お父さんは帽子を飛ばした。投げては空振りに終わる帽子を拾って何度も何度も飛ばした。君は後ろから追っかけてきて 「おと  がんばれ! おと  がんんばれ!」を連呼。

めだかを取るのに夢中になって、気が付くと5時間があっという間に経過していたこと。

保育所で卒園式の時、子供に対しメッセージ作文を作らされた。
最後に子供をステージに上げ、保母さんがそれを大勢の前で読んでくれる、という趣向のためだ。君が通っていた保育園は教会と併設されていて、そこの教会の関係者に後でそこそこのお褒めをいただいたみたいので、思い出の流れついでに、ここで過去の作文を書き込んでおこうと思う。

「娘へ、大分、前の話だけど、「大きくなったら何になる?」ってお父さんが聞いたら君はこう答えた。

「保育園の先生になる!」

お父さんはそれを聞いて涙目になった。先生に連絡帳で、このことをすぐ伝えようと思った。

「先生 きっと喜んでくれるに違いない」、そう思った。そして、

「どうして保育園の先生になりたいの?}って、聞くと、君はこう答えた。

「だって 保育園の先生は、給食べれるもん!」

「、、、、、、、、、、」

頬杖を着いていたお父さんの肘がテーブルからはずれて、体のバランスをくずした。
それ程ここの給食はおいしかったのだろう。
そんな風に君は我が家に笑いをばら撒いてくれた。人を笑わせることが大好きな君がいてくれたおかげで、我が家には笑い声が絶えなかったのだ。小学生になっても、その明るさを忘れないで欲しい。その明るさがあればきっと小学生になっても大丈夫だと思う。お父さんは君に向かっていつも応援しています。

君の背中に向かっていつも「がんばれよ!」って、つぶやいています。

でもお父さんが心の中で「がんばれよ!」って、つぶやくと君からはこんな風に返ってきます。

「おまえもな!」

以上、お父さんより」

この作文の朗読で、保育園での我々親子の株は少しあがったみたいだ。他の父兄さん達も好意的に感じてくれたみたいだ。でも卒園時だったので、時すでに遅しだった。(笑)

小一の春、君は補助車がとれたての子供用自転車で、そしてお父さんはママチャリで、サイクリングロードを往復に挑戦(片道18キロ)。ただだらだら走ってもしょうがないので、君をリードするべく先に先に走ると、君は自分が置いていかれると思うのか、

「おと 先に行くな! さっき うちより先に行くなって言ったよね! 何回同じこと言わせるんだよ おとうこら!」と、

自転車に乗りながら、かわいい悪態をついてきた。
お父さんとしては、マイペースよりもちょっとだけがんばった速度でペダルを漕ぐことによって、君の体が少しでも丈夫になるような気がしてのことだった。君が漕ぐペダルの一漕ぎ一漕ぎに、

「皮膚炎の抵抗力が発生してくれー発生してくれー」と、奇跡を念じていた。

小一の頃、友達に君が紹介される際のことだ、君の友達は子供心に思ったのだろう、何かその子の特徴的なことを言うことにより、君のことを紹介しやすかったのだと思う、めずらしい家庭形態だったからかもしれない、悪気なんて全然なかったのだと思う、

「この子 お母さん いないんだよ」と、そんな風に、よく人に紹介されていたみたいだ。

お父さんは、そんな風に君のことを紹介してくれる子供に対し、実を言うと感謝したのだ。
そんなことを通して君は精神的に誰よりも確実に強くなれることをお父さんは信じていたからだ。ちょっとだけでも、つらい体験を小さい頃にするからこそ、人間って、だからこそ生きる力みたいなものが誰よりも育つことを信じていたからだ。またそう紹介された直後に、なんとなく沸き起こってくる卑屈な気持ちに打ち勝つためには、どうしたらいいのかを子供に教えていくのが、それが親の腕の見せ所なのではないかと、そんな風にも思っていた。なので、君の心を動揺させる子供達に手放しな思いで、そんな感謝の気持ちを持つことが出来たと思う。
ウソではない。ホントにホントのそんな気持ちだった。

「ありがとう、ほんと ほんと ありがとね」と、お父さんは心の中で子供達につぶやいていた。

小学校2年生の時、君はとても仲のいい友達を作ることに成功した。
でも3年生の途中その友達は転校していなくなってしまった。今はもう時効だと思うのでその子の家庭事情を話せるのだが、その子はお兄ちゃんと弟との3人兄弟だった。2年生の春、君はその子に告白された。名前をK子ちゃんと言う。

「私、お母さんとお兄ちゃんと弟は本当の親や兄弟じゃないんだ」、と、

そこの家庭はお互い再婚家庭らしかった。
本当の血のつながっているお父さんは毎週火曜日にだけ泊まりにくるようだった。火曜日の夜だけは夜遅くまで起きててもいい許可を与えられているらしかった。お父さんと一緒に過ごせるからである。K子ちゃんは放課後遊べない子だった。弟の面倒を見なければならなかったからである。小二なのに、この子はお米をといて炊飯器で炊くまでやっていた。たまに放課後、遊ぶことを許される時があった。そんな時は必ずうちにに遊びにきた。たまにしか遊べないので2人は時間を惜しむように集中的に遊んでるみたいだった。家に来てK子ちゃんは大人の私に合うと、胸の前で合掌し「こんにちは」と、言う子だった。親が信仰を持っているのだろう。K子ちゃんの家に電話をかけるといつも留守電だった。たまに、「お客様の都合により電話をおつなぎできません」というコールの時も数回あった。

この子は君に自分の境遇を告白してくれた。
母親がいない家庭環境や恥ずかしいこともなんでも隠さずオープンにするお父さんの方針を押し付けられて、それに従わなければならない君に、K子ちゃんは同じ臭いを感じてくれたからかもしれない。君たち二人は兄弟のように仲が良よかった。2年生から3年生の約2年間、遊べる時間か短かかったかもしれないが、君とK子ちゃんの二人はいつも心で結ばれていたようだった。
K子ちゃんは3年生になったら自転車を買ってもらえると喜んでいた.。君もそれを楽しみにしていた。

「おとう K子ちゃんが3年生になって自転車を買ってもらって自転車に乗れるようになったらさ、 3人でサイクリンロードに行こうね んでさ お弁当もってさ 落ち返し地点で食べてさ んで帰ってこよ ね」

「うん わかった。おいしいお弁当 がっつり作っちゃる!OK」

しかし3年生になってもK子ちゃんが自転車を買ってもらえる気配はなかった。
買ってもらえることが絶望的な様相を呈してきたある朝、一緒に通学するべくK子ちゃんを待つ君の横顔に向かって質問してみた。

「K子ちゃんはかわいそうだと思う?それとも偉いと思う?お前はどう思う?」

君はしばらく考えてから答えた。

「、、、、、、 偉いと思う、、」

「うん、お父さんも、そう思う。K子ちゃんは、かわいそうとか、そんなんじゃなくて、全然そんなんじゃなくて、偉いんだと思う。」

K子ちゃんが転校した後、この子の家族は住所を転々とした。住所が変わる度に君に手紙がきた。そして今でも手紙のやりとりをしているみたいだ。君は、このK子ちゃんのことを、どれだけ心配したり、気にかけたりしただろう。そして、この子にどれだけ勇気づけられただろう。

君が小学3年生のの時、勤め先が倒産した。

お父さんは保証人になっていたので、家と土地を売って借金を返済した。なので家を人に明け渡さなければならなかった。そして転校しなければならない。引越しするときお父さんはこう言った。

「お父さんはさ  お金が全然なくなっちゃたけど、また0から始めようと思っている。0から始めるって、大変かもしれないけど、でもさ、実は楽しいことだと思っている。どれくらい楽しいことなのか、お父さんを見ていて欲しい。」

君は神妙にうなづいた。

この頃から、君は不思議と贅沢を言わない子になった。節約して物を使う子になった。
倒産したあと、当たり前だが、あまりいい事は無かったと思うのだが、君が贅沢を言わない子供になってくれたのは、お父さんにとって、それは大きな大きな収穫だったように思える。

少したってから、君はお父さんに、こう言った。

「おとう 宝くじ買ったらは?」

「宝くじは買わない!」

「どうして?」

「当たったら困るから」

「なんで当たったら困るの?」

「貧乏でなくなってしまうからさ」

「どうして?貧乏の方がいいの?」

「うん 貧乏って意外と楽しいんだぜ。貧乏ネタ沢山作れるし」

「それって強がり?」

「うん!ま 強がりだな、確かに、、、」

4年生から今の小学校に転校してきた、当初は毎晩、泣かれた、

「前の学校に帰りたい」と、

お父さんは一人でほくそえんでいた。

「よしよし、いいぞ、またお前は強くなるぞ。苦しめ苦しめ、ざまーみろ」

そのうち段段と遊ぶ友達が出来ていった。
5年生になると、とても仲のいい友達ができた。名前をRちゃんと言う。この子は大人というか、とてもしっかりしている子だった。君はほとんどこの子としか遊ばなくなった。Rちゃんのお父さんもお母さんも、働いていていつも家にいない。休日も仕事みたいだった。なので、一般の家庭でよく行くような遊び場所などには、あまり行ったことがないような子だった。でもとてもしっかりしていて、聡明で、君とは違って勉強も出来るし、善悪の区別もちゃんとしているし、おもしろいし、いっつもニコニコしてるし、なんだか誉めても誉めたり無いような子で、この子を見ていると子育てって、時間じゃないんだなぁ、密度なんだなぁとつくづく思い知らされるような気がして、親として、相手の親にほとほと頭がさがる思いがした。どう考えても君の方が大もうけにしか見えない二人の関係性だったように思うのだが、まそれぐらい君にはちょっともったいない子だなぁと思っていたのだが、何故か君のことを気に入ってくれたらしく、君にしても同じで、ほとんど毎日うちに遊びに来てくれるようになった。お父さんは、この子と君を連れていろんな所に遊びに行った。最初は向こうの親に恐縮されたのだと思う。なかなか許可が下りなかった。(我々のような家庭とどう対応していいかわからないで戸惑いがあったのだと思う。)

例えば、君が

「今度の日曜日、子供の国へ行こう、うちのおとうが 連れてってくれっから さ 」と誘うと、

「ごめん お母さんにダメだっていわれた。」と言う答えが返ってくる。

そんなことが多かった。
そのうち、私というか我々親子のことを、その子を通して、向こうの親は少しずつ理解していってくれたのだと思う。3回に1回は許可が出るようになり、その後3回に2回になり、そして、だいたいOKとなり、最終的には泊りにもきてくれるようになった。

うちの家に「泊まりに行ってもいいよ」という許可が向こうの親から下りた時、君はお父さんにハイタッチを求めてきたのを覚えている。信頼を獲得できたことが、親子でもって、うれしかったのである。なかなか許可が下りないというのは君にとってはつらい事に直面することと同じだったように思う。それは君のせいではないのだが、受け入れなければならない事実ではあるので、小学生にはちょっと不憫な感じもした。

しかし、君はそのRちゃんと少しでも一緒に時間を過ごそうとあきらめなかったようだ。Rちゃんにしても同じようだった。信頼されることはうれしい、でも、時間がかかる。だから長いスパーンで考えて、あきらめないで誠実に対応していく。そうすると必ず、好転する機会がやってくる。そんなこんなの6年間だった。そんなことを親子で体験した6年間だったように思う。

小学校を卒業する時、君にこう聞いてみた。

この学校に来て一番うれしかった思い出は何?

君はRちゃんに言われた一言が一番うれしい思い出になったらしい。

こう言われたらしい。

「この学校に転校して来てくれてありがとう」

この言葉が君にとって一番うれしい思い出になったらしい。

実を言うと、この言葉はお父さんにとてもありがたい一言だった。涙が出るよりも前に、全身の力が抜けてしまうようなありがたい一言だった。Rちゃんの一言はお父さんにとっても、間違いなく一番うれしい思い出になりそうである。大人の都合で離婚し、引越しをし、転校し、そのとばっちりを子供に沢山与えてしまった。親、失格だったと思う。不安を与えてしまったし、傷をつけてしまったのかもしれないし、なにより、ある意味、君の大事な人をお父さんは奪ってしまったのかもしれない。よく分からないのだが、お父さんは毎日、君に、心の中で、土下座をして謝っていたような気がする。床に額をこすり付けるような気持ちで、詫びたいという気持ちに捕らわれていたように思う。謝りたくて床に、血だらけになって、頭突きを繰り返していたようにも思う。
よく考えると、君を奪ってしまった君のお母さんに対しても同じような気持ちだったのかもしれない。
そのためなのか、「この学校に転校して来てくれてありがとう」と、いう言葉は、なんだか免罪符を頂いたような気がしたのである。お父さんは、涙がちょちょ切れるくらいうれしかった。
君の友達は君のことを肯定してくれた。考え過ぎかもしれないのだが、君の後ろにいるお父さんまで肯定してくれような気がしたのである。友達は、全てを許してくれるようなマリア様にも思えた。妄想かもしれないが、連動して、お父さんの事も救ってくれたような気がしてしょうがなかった。だから、この子に対しても、この子の親に対しても感謝の気持ちで一杯なのである。

まだまだ思いでは沢山なのだが、文字で書くとおそろしく長文になってしまうため、いつの頃からか、思い出を保管することにした。いつかお父さんが死んだ時、君はお父さんの遺品を整理しなければならない時がやってくる。その遺品の中にメロンのダンボールがあるだろう。そのメロンのダンボールの蓋には「お父さんの宝物」と書かれていると思う。中にはきっといろいろな物が入っている。卓球の判定が4級の親バカ賞状とか、佳作に入った版画、写真が趣味だったお父さんの沢山の写真。保育園の先生との連絡帳での6年間のやり取り、バトミントンのガットの切れたラケット、つぶれた卓球の玉、腰もみ券、お父さんの子育て日記。

そしてこの「将来の娘へ」と題された手紙。

おそらく君は、そんな一つのタイムカプセルに遭遇することになるだろう。

そのタイムカプセルの蓋をあけて欲しい。
君はそこに「ある阿呆の一生」を目の当たりにするだろう。一人の男の人生が詰まっているのだと思う。子供の心と身体をなんとかかんとか強くしようとした父親の半生みたいなものが詰まっているのだと思う。また、そんなことを自分のライフワークと考えて、もだえるように苦闘し試行錯誤した、そんなある父親の思い出というか、点と点の集まりが、そこには沢山詰まっていると思う。点の複合体みたいなものだろうか、その点の複合体にもし線を引くとしたら、その線は直線を呈するに違いない。そんな直線の延長線上に君がいるのだと思う。もし将来、君が自分が誰だか分からなくなったら、この蓋を開けてみて欲しいと思う。そこに君の原点、原点という言い方をすると、大袈裟になってしまうため、別な言い方を考えたいところなのだが、うまく言えない、うまく言えないのだが、とにかく、その箱から何かを感じることができるのではないかと、そんな淡い期待を抱いている。せつない期待なのかもしれないが、なんとなくだが、お父さんは、そう抱いているというか、そう願っているのである。

こんな風に思って欲しい。

君が生まれる前のお父さんは、とても弱い人間だったように思う。
人のせいにしたり、自分のことばかり主張してしまったり、人を許せなかったり、人を傷つけたり、人に意地悪をしたり、背伸びをしたり、ウソをついたり、しかし、どうだろう、自己評価で信用ならないかもしれないが、昔とは大分変わった自分がいるように思う。不平や不満や泣き言を、これっぽっちも口にしない、そんな強い自分が、今は確実に存在しているように思う。
店が倒産した時、特にそう思ったかな。

「来月、電気代をどうやって払おうかな」

と、そんなところまで追い込まれてしまった場面があったのだと思うのだが、そんな現実を、なんだか笑い飛ばすことができる自分がいたのである。昔とは違った、そんな特別な自分がいたのである。そんな強い自分が、自分自身でとても逞しく思えたのである。お父さんは昔はとっても弱虫だった。弱虫だったのかもしれないが、もしかして、いつの間にか強虫(つよむし)に変身してしまったようである。とりもなおさず、君との生活が、自分をして強くさせてくれたのは、間違いのない変化のような気がしてならないのである。弱虫からさなぎになり、脱皮して強虫という成虫にお父さんはなったのだろうか、そんなお父さんの自分自身の体験の観察記録が、思い出の中に点在しているように思う。そこんとこの点と点の間に、君が自ら懐に持っている物差しを、ぜひ当てて欲しいのである。可能なら、線を引いてもらいたい。

その線上に君がいれば、お父さんはうれしい。

繰り返したい、そこに君がいて欲しい、そんな風に思う。

こう考えて欲しい。

いつか君はタイムカプセルを開ける。
残念ながら、そこに入っているのは貯金通帳とかではないので、露骨にがっかりされるのかもしれないが、どちらにしても、蓋を開けた瞬間、そんな瞬間に、お父さんの人生は、やっとこ、終わりを向かえるのかもしれない。

 箱の中に、中年男のあわれな、目を覆いたくなるような、気持ちの悪い、そんな臭気ぷんぷんたる愛情が詰まっているのかもしれないが、ぜひそこで君に判定をしてもらいたいのである。君のお父さんは幸せな人生だったか、そうじゃなかったかを検証してもらいたい。もし君が前者であると判断するなら、もしよければ、お父さんのマネをしてもらえないだろうか。どうやったら強虫になれるか、どうやったら、不平や不満や泣き言をいわない、そんな強い強い人間になれるのかを箱の中を探索して欲しい。自分で言うのはおかしいかもしれないが、その箱の中にヒントや答えが沢山あるように思う。

まるで解答が必ず付いている問題集のようにだ。

君がもし将来、子供を授かったら、お父さんがしたことと同じことを自分の子供にして欲しい。
心も体も強くしてやって欲しい。でもそれを子供に言葉で伝えるのは不可能に近い。どんな論客でも文章家でも、それをテキストや言葉で伝えることは不可能に近いのだと思う。お釈迦様やキリスト様の知恵を借りても無理なのではないかと、おとうさんはそう思っている。しかし、子供を強くするのは、なにも難しいことではないように思う。親が十分できることなんだと思う。また出来なければダメなんだと思う。というか親だから出来ることなんだと思う。それは、

子育てを通して自分が強くなっていく過程を子供に観察させることなのではないかと思う。子供は勝手に観察してくれる。ある程度の年齢に達しない子供は親しか観察しないだろう。親が「切れる」親だったら、子供は「切れる」ことを学ぶだろう。セルフコントロールが上手な親だったら、子供はセルフコントロールの上手さをマネるだろう。親が寛大だったら、どうやったら寛大になれるかを模索するだろう。人を許すことが出来る親だったら、子供は心の整理の仕方を学ぶだろうし、向上心旺盛な親だったら、それが伝染するだろうし、強くなりたいと思う親なら、その親の行動を、子供は逐一興味を持って観察を続けてくる。子育てはつらくてとてもせつない。

でもそのつらくせつない感覚がへっちゃらな感覚になった時、今生で、つらいせつないの思いが当たり前だという感覚になれた時、気丈な自分がそこにいるのである。弱虫から脱皮してめでたく成虫になった自分を自覚できるように思う。そんな親が子供と向き合うことになる。その時、子供の傍らにいる親は、ようやくかもしれないが、人生の家庭教師となり得るのではないだろうか。
お父さんが君に残せるものはそれだけである。メロンのダンボールだけである。それだけしか残せないので申し訳ないという正直な気持でいるが、そんなここんなを了承して欲しいと思う。
君が蓋を開ける、お父さんの子連れの旅はそこで終わりになるだろう。その時、あの世に向かっている最中なのかもしれないが、お父さんは、寂しいと言う感覚ではなのだと思う。断言できる。
寂しくないのである。お父さんは百花楼蘭の思い出に囲まれている。

そして、あの世から君を見守る役割をよろこんで引き受けよろうと思っている。言っておくが、お父さんのことだから、過干渉的に君を手を貸すということは、まずしないだろう。もうダメだというような、そんな緊急の時しか、手を貸さないだろう。他力本願的な甘ったれた気持ちでいるうちは、また、君が不平や不満や泣き言を言っているようなら、お父さんは例によって今生と同じく沈黙することに決めている。つまり、あの世のお父さんは、今生のお父さんと同じである。あの世に行っても、お父さんはお父さんらしいのだと思う。

保育園時代、君は同級生や下の子から、「どうしてお母さんいないの?」という質問を毎日のようにあびせられた。

君よりもうんと小さい子供がその質問を繰り返しながらまとわりついてくる。
君はうまく答えられないので逃げようとする。でも無邪気な子の質問の手は緩まない。逃げても逃げてもその質問はまとわりついてくる。園に、お迎えに行った時、そんな場面を何度も目撃した。毎晩寝る時、お父さんに、まるでロッククライマーのように、がっちりしがみつくようにして眠りについた。寝ながら君はがんばっているようだった。パリンと割れたガラスのヒビを、セロテープかなんかで、まるで自分で補修してるみたいにがんばっているようだった。何もしてあげられなかった。お父さんができることは背中をさすることくらいだった。さすりながらつぶやいた。

「がんばれ、強くなれー」

お父さんは君が強くなることを信じていた。
あの世に行っても同じである。君が歯を食いしばっているとき、そんな時は、昔のあの時みたいに背中をさすりにやって来る。そしてつぶやこうと思う。お父さんがつぶやくと、返ってくる言葉は君が言わなくても、だいたい想像がついている。

今生のように、逆に君に

「お前もな」

と励まされて、お父さんは、あの世でもがんばることになるのだろう。

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